父の遺産を分けるため、母にも協議書へ署名してもらった。後から認知症の診断を受けていたと知り、「この協議は無効なのか」「もう一度やり直す必要があるのか」と不安になる。診断名と実印の有無だけでは、答えは決まらない。
確認すべきなのは、母が合意した時に、どの財産を誰が取得し、自分の生活や権利がどう変わるかを理解して判断できたかという点だ。これから協議する場合も、すでに署名した場合も、本人の理解と代理の権限を分けて整理する必要がある。
認知症の診断と、遺産分割を判断できる能力は同じではない
民法3条の2は、意思表示をした時に意思能力がなかった人の法律行為を無効とする。意思能力とは、その行為の結果を理解し、それを踏まえて意思を決める能力をいう。遺産分割協議もこの確認が必要な法律行為だ。
認知症には症状や程度の違いがあり、診断を受けたというだけで、どのような協議も一律に無効になるわけではない。逆に、診断がまだ付いていなかったというだけで有効になるわけでもない。見るべき時点は診断日ではなく、実際に合意した時だ。
実印、署名、印鑑登録証明書は、協議書の作成経緯を確認する資料になる。しかし、それだけで本人が内容を理解していたことまで証明できるわけではない。家族が印鑑や通帳を管理していた場合は、誰が説明し、本人がどのように答えたのかも確かめる。
本人に何を理解してもらう必要があるか
意思能力の判断では、問題となる行為の難しさや重大性も考慮される。少額の預金を単純に分ける合意と、不動産を手放す代わりに長期の支払約束を受ける合意では、理解すべき内容が違う。
- 誰が亡くなり、自分も相続人であること。
- 主な財産の種類、所在、おおよその価値。
- 自分が取得するものと、他の相続人が取得するもの。
- 取得しない財産について、今後どのような権利を失うか。
- 代償金、借金、住み続けられる条件などの付随する約束。
例えば、母が自宅を取得せず、子が母へ毎月一定額を支払うという仮定の協議を考える。家の名義が子になることだけでなく、支払いがいつまで続くか、途中で止まった場合にどうなるか、自分の生活費が確保されるかも理解の対象になる。家族が「面倒を見るから大丈夫」と説明しただけでは、合意の具体的な内容が見えない。
本人の理解を確かめる際は、「これでいいですね」と同意だけを求めるより、財産一覧と分け方を示し、本人が自分の言葉で希望や疑問を話せるようにする。耳が聞こえにくい、文字が小さい、疲れているといった事情と、理解する能力自体の問題も区別したい。
これから協議する場合は、署名を急がず支援方法を決める
本人が説明を理解できるなら、分かりやすい資料、十分な時間、休憩などを工夫し、その意思を確認する。家族にとって都合のよい答えを言わせることが目的になってはいけない。重要な点への応答が食い違うなどの疑問がある場合は、医師や法律専門家へ状態と協議案を示して相談する。
本人が協議の結果を理解して判断できない場合、家族であることだけを理由に代わりに同意することはできない。日常の支払いを手伝っていたことや、通帳・印鑑を預かっていることが、遺産分割の代理権になるわけではない。
成年後見制度を利用する場合は、本人の判断能力に応じて後見・保佐・補助を検討する。成年後見人は法定代理人として関与するが、保佐人・補助人が代理して協議するには、その行為について代理権が付与されている必要がある。同意権と代理権を混同せず、審判書や登記事項証明書を確認する。
後見は、遺産分割だけのための一時的な手続とは限らない
2026年9月時点の制度では、協議が終わったという理由だけで、家族の希望により後見等を終了できるわけではない。本人の財産管理や裁判所への報告が続き、専門職の報酬が生じる場合もある。また、家族が候補者を挙げても、その人が必ず選任されるとは限らない。
2026年6月には成年後見制度を見直す法律が成立・公布されているが、制度の見直しには施行時期が別に定められる。現在の手続と将来の制度を混同せず、申立ての際は法務省の改正案内と裁判所の現行手続案内を確認する。
後見人も相続人なら、本人をそのまま代理できないことがある
子が母の成年後見人で、父の遺産について子と母が共同相続人である場合を考える。遺産分割は双方の取り分を決める行為なので、後見人自身と本人の利益が相反する。家族仲がよい、母へ多く渡すつもりだという事情だけで、この問題を解消できるわけではない。
成年後見監督人が選任されていれば、利益が相反する行為について監督人が本人を代表する。監督人がいない場合は、原則として家庭裁判所へ特別代理人の選任を申し立てる。保佐・補助でも、必要に応じて臨時保佐人・臨時補助人等の対応を確認する。
選任の際には協議書案などを示し、どの行為を代理するのかを特定する。特別代理人が選ばれたから、家族の希望どおりの分割が当然に認められるわけではない。本人の生活費や介護費、取得する財産の価値を踏まえ、本人の利益を守る案を用意する。
すでに協議書がある場合は、合意日前後の記録を集める
後から無効を問題にする場合、現在の状態だけでは当時の理解を判断しにくい。協議日、説明を受けた日、署名日が違う場合もあるため、出来事を時系列に並べる。
| 資料 | 確認する内容 |
|---|---|
| 協議書原本、案、送付メール | どの案がいつ説明され、最終的に何へ合意したか |
| 診療録、診断書、投薬記録 | 合意当時に近い時期の状態と症状の経過 |
| 認知機能検査の結果 | 点数だけでなく、実施日と他の記録との整合 |
| 介護記録、主治医意見書等 | 日常の金銭管理、判断、意思疎通の状況 |
| 説明メモ、録音・動画 | 提示した資料、質問の仕方、本人自身の回答 |
| 後見の審判書・登記事項証明書 | 代理権、監督人、利益相反に対する手続 |
HDS-RやMMSEなどの検査結果は判断材料になるが、特定の点数だけで、その遺産分割が必ず有効・無効と決まるわけではない。協議に近い日の結果か、本人が理解すべき内容とどのような関係にあるかを見る。
録音や動画も、存在すれば有効性が保証されるものではない。短い場面だけの切抜きではなく、説明に使った資料、前後のやり取り、同席者の立場を合わせて保存する。診療録等は、本人や適切な代理人として取得できる範囲と手続を医療機関等へ確認する。
無効、取消し、内容への不満を分けて検討する
合意時に意思能力がなければ、民法3条の2による無効が問題になる。これに対し、成年被後見人本人が行った法律行為は、日用品の購入等を除き、民法9条による取消しも問題になる。本人の状態と後見開始の時期により、検討する根拠が異なる。
また、後から不公平だと感じたことだけで協議が無効になるわけではない。署名の偽造、代理権の欠如、錯誤や詐欺など、別の問題がある場合は、その要件と証拠を分けて整理する。
有効な同意がないなら、適切な代理人を参加させて再協議することを検討する。ただし、既存の協議の効力自体を他の相続人が争う場合は、無効確認等の民事訴訟による解決が必要になることもある。新たな遺産分割の調停を申し立てれば、すべての問題が当然に片付くとは限らない。
登記、預金払戻し、不動産売却まで実行されている場合は、第三者との関係や財産の保全も検討する必要がある。協議書を書き換える前に、現在誰が何を持っているかを把握して専門家に示したい。
相続税の期限と、本人の生活費を並行して管理する
協議の有効性に争いがあっても、相続税の申告・納付期限が自動で延びるわけではない。申告が必要な場合の期限は、原則として相続の開始を知った日の翌日から10か月だ。未分割時の計算や添付書類、分割後の税額の見直しを税理士等と確認する。
未分割では配偶者の税額軽減や小規模宅地等の特例を当初から使えない財産がある。後から適用するための書類や期限もあるため、国税庁の未分割時の申告案内を確認する。協議の結論を待つ間の介護費や生活費についても、誰が立て替え、どの記録を残すか決めておく。
最初の相談に持参するもの
- 協議書と、これまでの財産の移転が分かる資料。
- 説明・合意・署名・診断の各日付をまとめたメモ。
- 合意日前後の医療・介護記録。
- 本人が説明した希望や、理解に疑問を感じた応答の記録。
- 後見等の審判書と登記事項証明書があればその写し。
- 相続税の申告状況と、直近の生活費・介護費の支払予定。
他の無効原因は遺産分割協議が無効になるケース、代理の手続は裁判所の特別代理人等の選任案内、話合いによる解決は遺産分割調停の案内で確認できる。
よくある質問
認知症と診断されていれば協議書は必ず無効か
必ず無効になるわけではない。実際に合意した時点で、その協議の内容と結果を理解して意思を決められたかを、具体的な資料から判断する。
本人の実印があれば有効と考えてよいか
実印や印鑑登録証明書だけでは意思能力は決まらない。本人が何を取得し、何を手放すと理解していたか、説明や応答の記録も確認する。
認知機能検査の点数だけで判断できるか
単一の点数だけでは決められない。検査日と協議日の関係、協議の複雑さ、医療・介護記録、本人の説明内容を合わせて確認する。
子が母の後見人なら、そのまま父の遺産分割を代理できるか
子と母が共同相続人なら利益相反の対応が必要になる。成年後見監督人による代表や、家庭裁判所での特別代理人の選任などを確認する。
協議が終われば成年後見をやめられるか
2026年9月時点の制度では、遺産分割が終わったという理由だけで家族の希望により終了できるわけではない。継続する財産管理・報告・費用も含めて利用を検討する。
本記事は一般的な情報を示すものである。具体的な手続や税務は、相続開始日、財産、資料などを確認して判断する必要がある。



