特別受益は、一部の相続人への遺贈や一定の生前贈与を、遺産の取り分に反映する仕組みだ。先に大きな援助を受けた人と、まだ受けていない人へ、残った財産だけを等しく分けると差が残るためだ。
ただし、すべての贈り物を返してもらう制度でも、古い贈与を一律に無関係とする制度でもない。
父の書類を片付けていた奈央は、兄の亨が店を開いた頃の振込控えを見つけた。父から兄へ1,000万円。奈央は、父が息子の独立を喜んでいたことを覚えている。今さら相続の話に出すと、その気持ちまで否定するようで言い出しにくかった。
以下の亨と奈央は、特別受益を考えるための架空の兄妹だ。亨は「借りた分は返した」と考え、奈央は「開業のためにもらったお金では」と考えていた。
お金が動いたことと、どんな約束だったかを、分けて調べる必要があった。
そのお金は、何のために渡されたのか
民法903条が対象にするのは、同じ人を相続する人への遺贈と、婚姻・養子縁組のため、または生活の基盤となる贈与だ。住宅購入資金、独立開業の資金、不動産の贈与等は、代表的な確認項目になる。
一方、日常の生活費や小さな祝い金まで、全部が特別受益になるわけではない。教育費も「大学へ行かせてもらった」というだけでは決まらない。金額、親の経済状況、進学の内容、他の子への援助などを踏まえ、通常の扶養の範囲を超えるものかを考える。
受け取った人が、その遺産を一緒に相続する人かを、まず確かめる。
子の配偶者名義に送ったお金でも、実質は子への贈与とみられる事情があれば、問題になる場合がある。受取口座の名前だけで確認を終えないようにしよう。
振込控えは「お金が動いた」ことを教えてくれる
亨が開業時に父からお金を受け取っていた。そこまでは奈央とも一致していても、「もらった」のか「借りた」のかで話は違う。
贈与なら、何を贈り、どう受け取ると合意したのか。貸付けなら、返済の約束や実際の返済があるか。立替金の精算や預り金なら、その元になった支出や目的は何か。振込控えの隣に、契約書、返済の履歴、当時の手紙やメールを置いてみる。
贈与税の申告書も当時の認識を示す資料にはなるが、一枚で民法上の結論がすべて決まるわけではない。申告していないから贈与はなかった、と逆向きに決めることもできない。
親の通帳を管理していた人の出金は、使い道も確かめる。生活費や施設費に払った額と、その人自身が受け取った額は違う。
説明のつかない出金をすべて「特別受益」とまとめると、無断の出金について返還を求めるなど、別に考えるべき問題を見落とすおそれがある。
持戻しは、受け取った物を実家へ返すことではない
特別受益の持戻しとは、贈与された財産の価額を計算に加え、受けた人の取り分から調整することだ。贈られた家をいったん父名義へ戻したり、振り込まれた現金を遺産の口座へ必ず返したりする、という意味ではない。
相続人は亨と奈央だけ、遺産は預金3,000万円としよう。亨への特別受益は、父が亡くなった時点の評価で1,000万円と認められた、と仮定する。
遺言、寄与分、借金等はなく、父が援助を取り分の計算から外す「持戻し免除」の意思も示していない。分割時まで価額は変わらない例だ。
- 3,000万円に1,000万円を加え、計算上は4,000万円とする。
- 法定相続分2分の1ずつで、一人2,000万円。
- 亨は受益1,000万円を差し引いて、今回の遺産から1,000万円。奈央は2,000万円を取得する。
すでに受けた贈与等が、計算上の相続分と同じ額か、それ以上なら、その人は今回の遺産から取り分を受けられなくなる。
ただし、民法903条の調整だけで、超えた分を自動的に返す義務が生じるわけではない。遺留分の侵害等、別の請求ができるかは分けて確認する。
古い贈与の金額を、そのまま足してよいか
特別受益の価額は、亡くなった時点の価額を基礎として確認する。現金贈与なら物価変動の扱い、不動産なら亡くなった時の評価などが問題になる。昔の振込額をそのまま足せば、どの事案でも正解というわけではない。
贈られた物を売ったり、改造したり、壊したりしても、自動的に価額をゼロにしてよいわけではない。
民法904条では、受け取った人の行為で物がなくなったり、価額が変わったりした場合、死亡時になお元の状態で存在するものとみなして評価する。
具体的相続分の算定と、現実に分ける遺産の分割時の評価も区別が必要だ。相続税の評価額を共通の答えとして流用しないよう、何の計算に使う数字かを明記したい。
奈央は、兄から1,000万円を取り立てる計算ではないと分かった。貸付けで返済済みという亨の説明も、記録で確かめる。
先ほどの取り分は、贈与と特別受益が認められ、書き入れた条件を満たす場合の例だ。振込控え一枚で確定する額ではない。
父が「相続とは別に渡す」と考えていたなら
民法903条3項は、亡くなった人が持戻しをしない意思を示すことを認めている。これが持戻し免除だ。
遺言や贈与契約書に明記されていなくても、言動や事情から、持戻し免除の意思が認められる場合はある。
ただし、父が喜んでお金を渡しただけで、取り分の調整まで免除したとは決められない。援助の目的、当時の説明、ほかの子への配慮等から確かめよう。
相続が始まってから「父もそのつもりだったはずだ」と思うことと、父が実際に示した意思とは違う。残された記録が少ないなら、少ないことも含めて検討する。
婚姻20年以上の夫婦には、居住用不動産の推定規定がある
婚姻20年以上の夫婦で、一方が他方へ、居住用の建物かその敷地を遺贈・贈与した場合には、持戻し免除の意思があったと推定される(民法903条4項)。
推定なので、反対の意思が認められる場合まで、必ず免除されるという意味ではない。
この推定の対象は、居住用の建物かその敷地だ。預金や、住宅購入資金の現金を渡した場合に、そのまま適用されるわけではない。
実際に不動産を取得するまでの経緯から、実質は不動産の贈与といえるか、別に免除の意思が認められるかを検討する。
この規定は2019年7月1日に施行され、施行日前にされた遺贈・贈与には適用しない経過措置がある。婚姻年数とともに、遺贈・贈与の時期も確かめよう。
贈与税の配偶者控除は別の制度だ。婚姻20年という数字が同じでも、税と民法の扱いを混ぜないようにしたい。
「10年」は、どこから数えているのか
二十年前の援助の記録を見て、「10年を過ぎたから関係ない」と言う人がいる。ここでは、時間の向きを取り違えないことが大切だ。
民法904条の3の10年は、亡くなってから分割までの期間だ。10年経過後の分割では、原則として、特別受益や寄与分による取り分の調整をしない。
贈与から死亡までを一律に10年で区切る規定ではない。古い贈与にも、特別受益として検討する余地がある。
例えば20年前の開業資金古い贈与というだけで、特別受益の対象から自動的に外れるわけではない。目的・金額・免除の意思等を確かめる。
原則の10年は、こちらを数える死亡から10年経過後の分割では、原則として特別受益・寄与分による調整をしない(民法904条の3)。
期間内に家裁へ請求した場合等の例外や、古い相続の経過措置がある。期間経過後も、相続人全員が合意すれば考慮できる。詳しい期限と例外は、この節の本文で確認しよう。
死亡から10年を経過する前に、家裁へ遺産分割を請求した場合には、例外がある。
満了前6か月以内にやむを得ない事情で請求できず、その事情がなくなってから6か月を経過する前に請求した場合も、例外となる。
2023年4月1日前の相続にも関係するが、経過措置がある。この場合は、死亡から10年を経過する時と2028年3月31日のうち、遅い方までに家裁へ請求することが重要だ。
古い相続は、附則の経過措置も含めて期限を確かめよう。
期間経過後も、相続人全員の合意で特別受益や寄与分を考慮して分けることはできる。合意が得られない場合と、全員が納得している場合を同じに扱わないことだ。
死亡保険金を、開業資金と同じように足せるか
受取人を指定した死亡保険金は、原則として受取人の固有の財産だ。遺産そのものでも、通常の生前贈与でもない。
保険契約者・被保険者である亡くなった人が一部の相続人を受取人にした養老保険の死亡保険金は、原則として民法903条1項の遺贈・贈与に当たらない。
ただし、相続人同士の不公平が到底容認できないほど著しい特段の事情がある場合には、同条を類推して特別受益に準じた持戻しの対象となり得る。
その判断は金額だけではない。遺産総額に対する比率、同居や介護への貢献、亡くなった人との関係、各相続人の生活実態などを総合して考える。一定割合を超えれば必ず持戻し、という機械的な線引きではない。
遺留分と相続税には、それぞれ別の計算がある
遺留分の計算では、相続人への一定の贈与を基礎財産に加える期間を、原則として死亡前10年とする別のルールがある。
ただし、贈った側と受けた側の双方が、遺留分を害すると知っていた場合等には例外がある。また、請求する本人が受けた特別受益を差し引く場面に、同じ10年制限を使うわけでもない。
持戻し免除があっても、遺留分侵害の検討まで不要になるわけではない。遺留分の計算方法では、基礎財産に加える額と本人の受益を控除する額を分けて説明している。
相続税の生前贈与加算や相続時精算課税も、民法の特別受益とは対象、期間、評価のルールが違う。持戻し免除の意思表示だけで税金を計算するときの加算がなくなるわけではない。税の申告義務や必要資料は、相続税申告の手順とあわせて確認したい。
古い振込控えを、次の話し合いの資料にする
まず一件ずつ、贈与した人、受けた人、日付、目的、金額、裏付け資料を書き出す。次に、持戻し免除について分かることを添える。亡くなった日と、分割や家裁の手続がどこまで進んでいるかも確認する。
相手が贈与自体を否定しているのか、特別受益には当たらないと考えているのか、免除があったと主張しているのか。その違いが分かれば、次に集める資料も変わる。合意できない場合は、遺産分割の調停・審判の中での判断を検討する。
記録が全部見つかるまで相談を待つ必要はない。手元にある振込控えと、相手の説明、分からない点を持って弁護士に相談すれば、調べる順序を考えられる。
亨は返済の記録を探し、奈央は振込控えの前後にある父の書類を確認することにした。贈与か貸付けか、免除の意思はあったか、話が違う点を別々に聞く。記録だけで結論が出なければ、その不足も示して相談する。
父が独立を喜んだことと、援助を今の分け方でどう扱うかは、両立して考えられる。奈央が古い紙を読むのは、昔の気持ちを否定するためではなく、亨と同じ事実を見て話すためだった。
公的資料・根拠
ほかにも確認する手続がある場合は、寄与分・特別受益・特別寄与料の関連ガイドから目的に合う説明を探せる。
よくある質問
生前贈与はすべて特別受益ですか
すべてではない。共同相続人への遺贈や、婚姻・養子縁組のため、または生計の資本としての贈与かを、目的や金額等から確認する。
20年前の贈与なら関係ありませんか
贈与からの年数だけでは決まらない。特別受益に当たるか、持戻し免除があるか、相続開始後の分割の期間制限はどうかを確認する。
持戻しとは現金を返してもらうことですか
贈与の価額を計算に加え、受益者の取り分を調整する仕組みだ。民法903条だけで超過分の返還義務が自動的に生じるわけではない。
婚姻20年以上なら配偶者への贈与は全部免除ですか
同条4項の推定は居住用の建物または敷地の遺贈・贈与が対象だ。現金贈与にそのまま適用されるわけではなく、施行前の遺贈・贈与への適用除外もある。
死亡保険金も必ず持ち戻しますか
原則として受取人固有の財産だ。相続人同士の不公平が著しい特段の事情がある場合に、特別受益に準じた持戻しを検討する。
この記事は一般的な情報を説明するものだ。個別の対応は、死亡日、遺言や取引の資料、当事者間のやり取りを示して、弁護士等へ確認しよう。



