父の書類を片付けていたら、昔の振込控えが出てきた。兄が店を始めた頃の日付だった。
あのとき父は、ようやく独立した息子をうれしそうに見ていた。そのお金を、今になって遺産の話に持ち出してよいのだろうか。そう迷う場面を考えてみてほしい。
贈与した当時の気持ちと、残された家族の分け方は、別々の時点で問題になる。援助を喜んだことが嘘になるわけではない。それでも、すでに受けた援助をどう数えるかは、相続で確かめる必要がある。
特別受益は、共同相続人への遺贈や一定の生前贈与を考慮して、遺産の取り分を調整する仕組みだ。すべての贈り物を返してもらう制度ではなく、「10年前より古い贈与は一律に無関係」という制度でもない。振込控えに書かれた日付だけでは、まだ答えは出ない。
そのお金は、何のために渡されたのか
民法903条が対象にするのは、共同相続人への遺贈と、婚姻・養子縁組のため、または生計の資本としての贈与だ。住宅購入資金や独立開業のための資金、不動産の贈与などは、検討したい代表的な項目になる。
一方、日常の生活費や小さな祝い金まで、全部が特別受益になるわけではない。教育費も「大学へ行かせてもらった」というだけでは決まらない。金額、親の資力、進学の内容、他の子への援助などを踏まえ、通常の扶養の範囲を超えるものかを考える。
受け取った人が共同相続人かどうかも出発点になる。ただし、子の配偶者名義への送金だから必ず無関係、とも言い切れない。名義は配偶者でも、実質的に子への贈与とみられる事情があるかが問題になることもある。受取口座の名前だけで、確認を打ち切らない方がよい。
振込控えは「お金が動いた」ことを教えてくれる
兄が開業時に父からお金を受け取っていた。そこまでは一致していても、「もらった」のか「借りた」のかで話は違う。
贈与なら、何を贈り、どう受け取ると合意したのか。貸付けなら、返済の約束や実際の返済があるか。立替金の精算や預り金なら、その元になった支出や目的は何か。振込控えの隣に、契約書、返済の履歴、当時の手紙やメールを置いてみる。
贈与税の申告書も当時の認識を示す資料にはなるが、一枚で民法上の結論がすべて決まるわけではない。申告していないから贈与はなかった、と逆向きに決めることもできない。
親の通帳を管理していた人による出金は、さらに使途を分ける必要がある。生活費や施設費に支払った額と、本人が受け取った額は違う。説明のつかない出金を全部「特別受益」と名付けると、無断の出金に対する返還請求など、本来検討すべき問題を取り違えるおそれがある。
持戻しは、受け取った物を実家へ返すことではない
特別受益の持戻しとは、贈与された財産の価額を計算に加え、受けた人の取り分から調整することだ。贈られた家をいったん父名義へ戻したり、振り込まれた現金を遺産の口座へ必ず返したりする、という意味ではない。
例えば、相続人が子2人、遺産が預金3,000万円、兄への特別受益が相続開始時の評価で1,000万円と認められた場合を考える。遺言、持戻し免除、寄与分、債務などの別の事情はなく、分割時まで価額も変わらない例だ。
- 3,000万円に1,000万円を加え、計算上は4,000万円とする。
- 法定相続分2分の1ずつで、一人2,000万円。
- 兄は受益1,000万円を差し引いて、今回の遺産から1,000万円。もう一人は2,000万円を取得する。
すでに受けた贈与等が計算上の相続分に達するか超える場合、その人は遺産から相続分を受けられなくなる。ただし、民法903条による調整だけで、超えた分の返還義務が当然に生じるわけではない。遺留分侵害など別の請求が成立するかは、分けて考える。
古い贈与の金額を、そのまま足してよいか
特別受益の価額は、相続開始時の価額を基礎として確認する。現金贈与なら物価変動の扱い、不動産なら死亡時の評価などが問題になる。昔の振込額をそのまま足せば、どの事案でも正解というわけではない。
贈られた物を受贈者が処分した、改造した、壊してしまったという場合にも、当然にゼロとしてよいとは限らない。民法904条は、受贈者の行為による滅失や価額の増減について、相続開始時になお原状で存在するものとみなす取扱いを定めている。
具体的相続分の算定と、現実に分ける遺産の分割時の評価も区別が必要だ。相続税の評価額を共通の答えとして流用しないよう、何の計算に使う数字かを明記したい。
父が「相続とは別に渡す」と考えていたなら
民法903条3項は、被相続人が持戻しをしない意思を示すことを認めている。これが持戻し免除だ。
遺言や贈与契約書に書かれている場合だけでなく、黙示の意思が認められる余地もある。ただし、「父が喜んで渡した」というだけで、相続分の調整まで免除したと決めることはできない。援助の目的、当時の説明、他の子への配慮などから、父の意思を具体的に確かめる。
相続が始まってから「父もそのつもりだったはずだ」と思うことと、父が実際に示した意思とは違う。残された記録が少ないなら、少ないことも含めて検討する。
婚姻20年以上の夫婦には、居住用不動産の推定規定がある
婚姻期間が20年以上の夫婦の一方が、他方へ居住用の建物または敷地を遺贈・贈与した場合は、持戻し免除の意思表示があったと推定される(民法903条4項)。反対の意思が認められる場合まで、必ず免除になるという意味ではない。
対象は居住用の建物または敷地だ。配偶者への預金の贈与や住宅購入資金の現金贈与に、この項の推定がそのまま適用されるわけではない。実際の不動産取得までの経緯から、実質的な不動産贈与と評価できるか、または別に免除の意思が認められるかを検討する。
また、この規定は2019年7月1日施行で、施行日前にされた遺贈・贈与には適用しない経過措置がある。婚姻年数だけでなく、遺贈・贈与の時期も確かめたい。贈与税の配偶者控除とも別の制度であり、「20年だから税金も民法も同じ扱い」にはならない。
「10年」は、どこから数えているのか
二十年前の援助の記録を見て、「10年を過ぎたから関係ない」と言う人がいる。ここでは、時間の向きを取り違えないことが大切だ。
民法904条の3は、相続が始まってから10年を経過した後の遺産分割について、原則として特別受益や寄与分を考慮しないルールを定めている。贈与から死亡までの年数を一律に10年で区切る規定ではない。古い贈与でも、特別受益として検討する余地はある。
相続開始から10年を経過する前に家裁へ遺産分割を請求した場合は例外となる。期間満了前6か月以内に請求できないやむを得ない事由があり、その消滅後6か月を経過する前に請求した場合にも例外がある。
2023年4月1日前に始まった相続にも適用されるが、この場合は経過措置により、相続開始から10年を経過する時と2028年3月31日の、いずれか遅い時までの家裁への請求が重要になる。古い相続を扱う際は、附則を含めて期限を確かめる。
期間経過後も、相続人全員の合意で特別受益や寄与分を考慮して分けることはできる。合意が得られない場合と、全員が納得している場合を同じに扱わないことだ。
死亡保険金を、開業資金と同じように足せるか
受取人を指定した死亡保険金は、原則として受取人の固有の財産だ。遺産そのものでも、通常の生前贈与でもない。
最高裁平成16年10月29日決定は、保険契約者・被保険者である被相続人が一部の相続人を受取人にした養老保険の死亡保険金について、原則として民法903条1項の遺贈・贈与に当たらないとした。そのうえで、相続人間の不公平が到底容認できないほど著しい特段の事情がある場合には、同条を類推して特別受益に準じた持戻しの対象となるとした。
その判断は金額だけではない。遺産総額に対する比率、同居や介護への貢献、亡くなった人との関係、各相続人の生活実態などを総合して考える。一定割合を超えれば必ず持戻し、という機械的な線引きではない。
遺留分と相続税には、それぞれ別の計算がある
遺留分では、算定の基礎財産へ加える相続人への贈与に、原則として相続開始前10年以内の一定の贈与というルールがある。ただし、当事者双方が遺留分を害すると知っていた場合の例外などがあり、請求する本人が受けた特別受益の控除も同じ10年制限で考えるわけではない。
持戻し免除があっても、遺留分侵害の検討まで不要になるわけではない。遺留分の計算方法では、基礎財産に加える額と本人の受益を控除する額を分けて説明している。
相続税の生前贈与加算や相続時精算課税も、民法の特別受益とは対象、期間、評価のルールが違う。持戻し免除の意思表示だけで税務上の加算がなくなるわけではない。税の申告義務や必要資料は、相続税申告の手順とあわせて確認したい。
古い振込控えを、次の話し合いの資料にする
まず一件ずつ、贈与した人、受けた人、日付、目的、金額、裏付け資料を書き出す。次に、持戻し免除について分かることを添える。相続開始日と、分割や家裁の手続がどこまで進んでいるかも確認する。
相手が贈与自体を否定しているのか、特別受益には当たらないと考えているのか、免除があったと主張しているのか。その違いが分かれば、次に集める資料も変わる。合意できない場合は、遺産分割の調停・審判の中での判断を検討する。
記録が全部見つかるまで相談を待つ必要はない。手元にある振込控えと、相手の説明、分からない点を持って弁護士に相談すれば、調べる順序を考えられる。
あの日、父が息子の独立を喜んだことと、その援助を今の分け方でどう扱うかは、両立して考えられる。昔の気持ちを否定するためにではなく、残された家族が同じ事実を見て話せるように、古い紙をもう一度読む。
公的資料・根拠
よくある質問
生前贈与はすべて特別受益ですか
すべてではない。共同相続人への遺贈や、婚姻・養子縁組のため、または生計の資本としての贈与かを、目的や金額等から確認する。
20年前の贈与なら関係ありませんか
贈与からの年数だけでは決まらない。特別受益に当たるか、持戻し免除があるか、相続開始後の分割の期間制限はどうかを確認する。
持戻しとは現金を返してもらうことですか
贈与の価額を計算に加え、受益者の取り分を調整する仕組みだ。民法903条だけで超過分の返還義務が当然に生じるわけではない。
婚姻20年以上なら配偶者への贈与は全部免除ですか
同条4項の推定は居住用の建物または敷地の遺贈・贈与が対象だ。現金贈与にそのまま適用されるわけではなく、施行前の遺贈・贈与への適用除外もある。
死亡保険金も必ず持ち戻しますか
原則として受取人固有の財産だ。相続人間の不公平が著しい特段の事情がある場合に、特別受益に準じた持戻しを検討する。
本記事は一般的な情報提供です。個別の対応は、相続開始日、遺言や取引の資料、当事者間のやり取りを示して弁護士等へ確認してください。



